Pacta Sunt Servanda

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百選44事件 日曜授業参観(東京地判昭和61年3月20日)

 そこで、この授業参観を日曜日に行う必要性について考察するのに、まず、授業参観は、児童の父母が実際の授業を見ることを必須の条件としていることから、これを行う以上、現実に児童の父母がより多く参観に来ることができるような曜日を選定しなければならないといえる。そして、証人高石伸子の証言によれば、小岩小学校では一学期に一回の割合で平日に父母の授業参観日を設けているが、その場合には、児童の七、八割の母親が参観するものの、父親の参観はほとんどないことが認められ、また、証人早川昌秀の証言及び弁論の全趣旨によれば、小岩小学校の通学地域の特性は、住宅地を主体としたものであり、会社員、公務員等のいわゆる勤労者世帯が多くを占めていることが認められる。
 そうすると、少なくとも会社員及び公務員等のいわゆるサラリーマン家庭については日曜日、国民の祝日等の休日には勤務を要しない可能性が高いから、日曜日は、この多数を占める家庭について父母双方あるいは少くとも平日参観ができない父親も参観に来ることができる可能性が大きい日ということになる。のみならず、証人高石伸子の証言によれば、小岩小学校の児童の家庭では、母親まで勤務先を持ち、平日参観が困難な家庭も現れてきており、父親の授業参観を可能にするのと同様の理由で、母親についても休日の授業参観の機会を設ける必要が感じられるような事態が生じてきたことが認められる。このような理由によつて、本件授業参観を日曜日に設定したことは、平日参観では達せられない授業参観の目的を達成するために必要かつ適切な措置であつたということができる。ちなみに、証人早川昌秀の証言及びこれにより真正に成立したと認められる乙第一四号証によれば、本件授業に父母双方又は一方が参加した家庭数は、全校生徒家庭の九三パーセントに及んでいることが認められ、このことからも日曜日を授業参観の日として選定したことの妥当性は裏付けられている
 以上のとおりであるから、授業参観のため日曜日に授業を行うことは、特別の必要がある場合に該当すると解されるところ、成立に争いがない乙第一号証、丙第四号証、証人島津忍、同早川昌秀の各証言及び弁論の全趣旨によれば、小岩小学校では、本件授業を昭和五七年六月一三日の日曜日に実施し、その代り翌一四日の月曜日を休業日とすることを年間行事計画において定め、これを江戸川区教育委員会に予め届け出ていたことが認められるから、本件授業を日曜日に行つたことは、法令上の根拠(学校教育法施行規則四七条、東京都区市町村立学校の管理運営の基準に関する規則三条二項但書、江戸川区立学校の管理運営に関する規則三条二項但書)に基づいているということができる。
(二) 本件欠席記載の根拠
 右(一)にみたとおり、学校教育法施行規則四七条に基づき日曜日を授業日とすることができる場合に当たり、かつ、被告校長が昭和五七年六月一三日の日曜日をその授業日と適法に指定した以上、同日は正規の授業日であることにかわりないことになるから、抗弁4記載のとおり(なお江戸川区教育委員会の定める指導要録の記入要領については、成立に争いのない乙第一五号証によりこれを認める。)、被告校長が、児童らについて本件欠席記載をしたことに手続上違法なところはない。
(三) 本件欠席記載の実体的違法性の有無
 小岩小学校において授業参観を日曜日に実施することは、右(一)にみたとおり、公教育として学校教育上十分な意義を有するものであり、かつ、法的な根拠に基づいているものであるから、これを実施するか否か、実施するとして午前、午後のいかなる時間帯に行うかは被告校長の学校管理運営上の裁量権の範囲内であるということができる。したがつて、本件授業の実施とこれに出席しなかつた原告児童らを欠席扱いにしたことが原告らに対して不法行為を構成する違法があるとすれば、それは、被告校長が右の裁量権の範囲を逸脱し、濫用した場合に限られることになる。そこで、この点について項を改めて検討する。
3 被告校長の裁量行為について
(一) 本件欠席記載の効果
 原告らは、原告子どもらが本件欠席記載を受けたこと自体が原告らの利益を侵害していると主張する。そして同欠席記載が出席に対する消極的な評価であるという面では原告児童らにとつて精神的な負担となり、その意味でならこれを不利益な措置あるいは扱いということができないではない。そして、学校教育法施行規則一五条二項によれば、本件欠席記載がなされた指導要録の保存期間は二〇年と定められているから、少くともこの間は右のような記載が記録されたままになる。しかし、右欠席記載から、右に述べた以外にさらに法律上あるいは社会生活上の処遇において何らかの不利益な効果が発生するとは認められないことは前記二で検討したとおりである。
(二) 欠席の回避に伴う原告らの不利益
(1) それにしても、本件欠席記載が原告児童らにとつて好ましくない事実であることは、右(一)のとおりであるが、原告らにおいて同記載を回避するためには、原告児童らを本件授業に出席させるしか方法がないことになる。しかし、原告らが原告児童らを本件授業に出席させるならば、前記1で認定した事実関係のもとでは、原告児童らは日本基督教団小岩教会における教会学校には(その開始時間を大巾に繰り上げる等の特別な措置がとられないかぎり)出席できなくなることは明らかである。
 そこで、原告らは、本件授業に出席するか同日の教会学校に出席するかという二者択一の形で本件授業を実施することは、原告らがキリスト教徒として有する信仰の自由を侵すことになり、不法行為に当たると主張する。
(2) 一般に、宗教教団がその宗教的活動として宗教教育の場を設け、集会(本件の教会学校もここにいう「集会」に含める。)をもつことは憲法に保障された自由であり、そのこと自体は国民の自由として公教育上も尊重されるべきことはいうまでもない。しかし、公教育をし、これを受けさせることもまた憲法が国家及び国民に対して要請するところであり、具体的には学校教育法等の関係法規によつて定められたところに従つて、被告校長その他の教育実務の運営に当たる機関において実施することが要求されている行為であることもまた明らかである。そして、右の公教育をいかなる日時に実施すべきかについては、前記2(一)(2)でみたとおり学校教育法施行規則四七条とこれを受けた都、区の各規則で定めるところである。その結果、公教育が実施される日時とある宗教教団が信仰上の集会を行う日時とが重複し、競合する場合が生じることは、ひとり日曜日のみでなく、その他の曜日についても起こりうるものである(例えば、教義によつては土曜日を特別に宗教上重要な日とし、あるいは金曜日をそのような日と考え、また、曜日によつてではなく特定の暦日をそのような日として扱う宗教があることは公知の事実である。)。それゆえ、ある宗教教団がその教義に従つて集会を行う日時が公教育の実施される日時と重なる場合には、当該宗教教団に所属する信仰者は、そのいずれに出席するかの選択をその都度迫られることになるが、これをしも公教育の実施が信者の宗教行為の自由を制約するというのであれば、そのような制約はひとり本件授業にとどまらず、随所に起こるものということができる。
 しかし、宗教行為に参加する児童について公教育の授業日に出席することを免除する(欠席として扱うことをしない。)ということでは、宗教、宗派ごとに右の重複・競合の日数が異なるところから、結果的に、宗教上の理由によつて個々の児童の授業日数に差異を生じることを容認することになつて、公教育の宗教的中立性を保つ上で好ましいことではないのみならず、当該児童の公教育上の成果をそれだけ阻害し(もつとも、学業の点のみであれば、後日補習で補えないものではない。)、そのうえさらに、公教育が集団的教育として挙げるはずの成果をも損なうことにならざるをえず、公教育が失うところは少なくないものがあるといえる。
 このような見地から、学校教育法施行規則四七条等の前掲関係法規は、公立小学校の休業日に授業を行い授業日に休業しようとするときの手続を定めるに当たつても、右宗教上の集会と抵触するような振替えを特に例外的に禁止するような規定は設けず、振替えについての公教育上の必要性の判断を「特別の必要がある場合」との要件の下に当該学校長の裁量に委ねたものと解されるのである。
 したがつて、公教育上の特別の必要性がある授業日の振替えの範囲内では、宗教教団の集会と抵触することになつたとしても、法はこれを合理的根拠に基づくやむをえない制約として容認しているものと解すべきである。このように、国民の自由権といつても、それが内心にとどまるものではなく外形的行為となつて現れる以上、法が許容する合理的根拠に基づく一定の制約を受けざるをえないことについては信仰の自由も例外となるものではないと解される。
 以上の意味において、かつその限りにおいて、原告らの教会学校における集会や信仰上の活動が前記(一)のような態様での不利益を被るという形で制肘される結果になつたとしても、そのゆえに本件授業が原告らに対して違憲、違法となるものではなく、原告らの被る右の不利益は原告らにおいて受忍すべき範囲内にあるものと言わざるをえないのである。
(3) 原告らは、教育基本法九条を根拠に、公教育の担当機関は宗教教育に対する特別の配慮をすべき義務があり、宗教教育に参加する者に対して公教育上の授業に出席を強制する結果となるような授業日の振替えをしてはならず、宗教教育を受けるために授業に出席しなかつた者に対して少なくとも欠席の扱いをとるべきではないと主張する。
 なるほど、教育基本法九条一項は、宗教に関する寛容の態度と並べて宗教の社会生活における地位を教育上尊重すべきことを規定しているが、その趣旨とするところは、宗教が人間性を培う上で重要な役割を果す契機の一つであるにもかかわらず、その重要性の認識がともすれば日常生活の利害の追求の中で稀薄化し、なおざりにされる恐れがあることに鑑みて、人格の完成をめざし国家及び社会の形成者としての資質を育成しようとする教育の目的(教育基本法一条参照)的見地から、社会生活における宗教の地位の尊重について配慮を促したものと理解される。したがつて、右規定は宗教的活動の自由に教育に優先する地位を与えたり、その価値に順序づけをしようとするものではなく、政治的教養(その涵養に必要な活動を含む)の尊重(同法八条一項)をうたうのと同様の趣旨に出たものにほかならない。それゆえ、この規定から、日曜日の宗教教育が本件授業の実施に優先して尊重されなければならないものと根拠づける原告らの主張は採用できないものと言わなければならない。まして公教育の担当機関が、児童の出席の要否を決めるために、各宗教活動の教義上の重要性を判断して、これに価値の順序づけを与え,公教育に対する優先の度合を測るというようなことは公教育に要請される宗教的中立性(同法九条二項)に抵触することにもなりかねない。したがつて、原告らキリスト教の信仰者が日曜日には公教育に対する出席義務から解放されて自由に教会学校に出席する(させる)ことができるという利益が憲法上保護されるべき程度も、先に述べた公教育上の特別の必要がある場合に優先するものではなく、本件欠席記載を違法ならしめるものではないというべきである。
 そして、前記判示のとおり、日曜日についても、一定の要件のもとでは、これを授業日とすることができるのであり、これが適法に授業日となつた以上、欠席は欠席として記録することが校長の職務上の義務であり、出席を要しない日として取り扱う法令上の根拠は存在しない。 
 なお、江戸川区教育委員会では指導要録の出欠の記録の記入要領を決定しており、これによれば、正規の授業日に出席しない児童についても一定の場合(前掲乙第一五号証によれば、その詳細は抗弁4(二)に記載のとおりであることが認められる。)には、例外的に欠席と扱われないことがあるのは原告指摘のとおりである。しかし、右のような例外的なケースは、いずれも定型的におよそ児童に対して学校に出席することを要求するのが社会的にみて不可能もしくは不相当な場合であつて、日曜日の宗教教育に出席することは右に掲げた社会的事由とは異質なものである。したがつて、右例外的扱いを本件において原告児童らに対して拡張して適用しないからといつて、それが違法となる理由はないというべきである。
(三) 代替措置の可能性と裁量の範囲
 本件授業の目的は、授業参観を実施するためのものであるところ、原告らは、右目的を達成するためには、他の日時を選択することも可能であり、この点で被告校長の裁量には違法があると主張する。しかし、授業参観を平日に実施することで補えないことは、前記2(一)で考察の結果から明らかであり、他の日曜日をもつて代えることも、なんら原告ら主張の前記の信仰の自由に対する制肘を解消することにならないから、これが有効な代替措置でないことは明らかである。
 授業参観を日曜日の午後に実施することを原告らは代案として主張するが、およそ学校の授業が午前八時半から九時の間に開始されることは公知の事実であり、児童の心身の状態からみて一般的に午前に学習することが午後のそれに比べ優れているし(この点は証人島津忍の証言によつて認められる。)、また生徒及び父母の一般的な日曜日の過し方から考えても、午後に授業参観が行われることは、自由な時間が午前中に入ることになつて、正規の授業の効果が挙げられなくなり、教育の効率が阻害される可能性が強く、平日と同様な授業を参観させようとする本件授業実施の目的に副わない結果となる恐れが多分にある。また、午前中に授業を参観して、午後を父母と教師、校長との懇談や説明の場に当てる(前記2(一)(2)で認定した授業参観の目的のうち第二、第三に関する行事に相当する。)という授業参観の通例(この点は証人島津忍の証言によつて認められる。)に鑑みても、平常どおり午前中に授業参観を行うことは強い合理性があると認められる。
 最後に国民の祝日に実施することについて検討するに、まず、およそ国民の祝日については国民の祝日に関する法律によりそれぞれの意義が付与されており、公教育の立場からいうとその意義に沿うものでない限り(例えば体育の日に運動会を実施するように)、国民の祝日をあえて授業日とすることは妥当性の点で疑問を生じる余地があることは否めない。しかも、新学年が開始して児童の学校生活もほぼ安定したといえる六月に授業参観日を設定することは、前記2(一)(2)で認定した授業参観の三つの目的に照らして適切と考えられるところ、同月には国民の祝日は存在しないから、本件授業の日を六月一三日としたことになんら裁量権の逸脱はないものと言うべきである。
4 本件授業の実施の相当性と本件欠席記載の適法性
 以上本件授業の実施に伴い、原告らに一定の事実上の不利益が生ずることを認められるものの、本件授業は、法令上の根拠を有し、その実施の目的も正当であるところ、実際に当該年度に実施された日曜日授業の回数(弁論の全趣旨によれば、小岩小学校における昭和五七年度の日曜日授業参観は本件授業のみであつたことが認められる。)及び授業参観の目的を達成するためにとりうる代替措置の可能性の程度からみても、本件授業の実施に相当性が欠けるところはなく、被告校長の裁量権の行使に逸脱はない。
 そして、日曜日に出席しなかつた児童に対して指導要録に欠席記載をとるべきことも前記判示のとおりこれを正当として是認できるから、被告校長が本件授業を実施し、本件欠席記載をしたこと憲法一四条一項、二〇条一項、二六条、教育基本法三条、七条、一九条に違反するものではなく裁量権の逸脱もないから、右所為を不法行為と主張する原告らの請求はいずれも理由がない。
四 原告子どもらの授業を受ける権利の侵害について
 請求原因7(一)の事実は、当事者間に争いがない。しかし、すでに判断したとおり本件授業は、法令に基づく適法かつ正規の授業であり、原告児童らがその主張のような理由で欠席したからといつて、当該児童に補充授業をしなければならない法律上の根拠はない。したがつて、原告児童らに本件授業に見合う授業を受ける権利があることを前提とする不法行為の主張も失当である。
五 結論
 よつて、原告児童らの被告校長に対する本件欠席記載の取消しを求める訴えは、不適法として却下し、原告らの被告江戸川区及び被告東京都に対する各損害賠償請求は、いずれも理由がないのでこれを棄却することとし、訴訟費用の負担について、行訴法七条、民訴法八九条、九三条本文を適用して、主文のとおり判決する。