Pacta Sunt Servanda

「合意は拘束する」自分自身の学修便宜のため、備忘録ないし知識まとめのブログです。 ブログの性質上、リプライは御期待に沿えないことがあります。記事内容の学術的な正確性は担保致しかねます。 判決文は裁判所ホームページから引用してますが、記事の中ではその旨の言及は割愛いたします。

百選145事件 東京都教組事件(最大判昭和44年4月2日)

(イ) ところで、地公法三七条、六一条四号の各規定が所論のように憲法に違反するものであるかどうかについてみると、地公法三七条一項には、「職員は、地方公共団体の機関が代表する使用者としての住民に対して同盟罷業、怠業その他の争議行為をし、又は地方公共団体の機関の活動能力を低下させる怠業的行為をしてはならない。又、何人も、このような違法な行為を企て、又は遂行を共謀し、そそのかし、若しくはあおつてはならない。」と規定し、同法六一条四号には、「何人たるを問わず、第三十七条第一項前段に規定する違法な行為の遂行を共謀し、そそのかし、若しくはあおり、又はこれらの行為を企てた者」は三年以下の懲役または一〇万円以下の罰金に処すべき旨を規定している。これらの規定が、文字どおりに、すべての地方公務員の一切の争議行為を禁止し、これらの争議行為の遂行を共謀し、そそのかし、あおる等の行為(以下、あおり行為等という。)をすべて処罰する趣旨と解すべきものとすれば、それは、前叙の公務員の労働基本権を保障した憲法の趣旨に反し、必要やむをえない限度をこえて争議行為を禁止し、かつ、必要最小限度にとどめなければならないとの要請を無視し、その限度をこえて刑罰の対象としているものとして、これらの規定は、いずれも、違憲の疑を免れないであろう。

 しかし、法律の規定は、可能なかぎり、憲法の精神にそくし、これと調和しうるよう、合理的に解釈されるべきものであつて、この見地からすれば、これらの規定の表現にのみ拘泥して、直ちに違憲と断定する見解は採ることができない。すなわち、地公法は地方公務員の争議行為を一般的に禁止し、かつ、あおり行為等を一律的に処罰すべきものと定めているのであるが、これらの規定についても、その元来の狙いを洞察し労働基本権を尊重し保障している憲法の趣旨と調和しうるように解釈するときは、これらの規定の表現にかかわらず、禁止されるべき争議行為の種類や態様についても、さらにまた、処罰の対象とされるべきあおり行為等の態様や範囲についても、おのずから合理的な限界の存することが承認されるはずである

 かように、一見、一切の争議行為を禁止し、一切のあおり行為等を処罰の対象としているように見える地公法の前示各規定も、右のような合理的な解釈によつて、規制の限界が認められるのであるから、その規定の表現のみをみて、直ちにこれを違憲無効の規定であるとする所論主張は採用することができない

百選144事件 全逓東京中郵事件(最大判昭和41年10月26日)

 上告趣意は、公労法一七条一項の規定が憲法二八条および一八条に違反して無効であるという。しかし、右の規定が憲法の右の法条に違反するものでないことは、すでに当裁判所の判例とするところであり(前者については、昭和二六年(あ)第一六八八号同三〇年六月二二日大法廷判決、刑集九巻八号一一八九頁、後者については、昭和二四年(れ)第六八五号同二八年四月八日大法廷判決、刑集七巻四号七七五頁)、公労法一七条一項の規定が違憲でないとする結論そのものについては、今日でも変更の必要を認めない。その理由をすこし詳しく述べると、つぎのとおりである。

 憲法二八条の保障する労働基本権は、さきに述べたように、何らの制約も許されない絶対的なものではなく、国民生活全体の利益の保障という見地からの制約を当然に内包しているものと解すべきである。いわゆる現業および三公社の職員の行なう業務は、多かれ少なかれ、また、直接と間接との相違はあつても、等しく国民生活全体の利益と密接な関連を有するものであり、その業務の停廃が国民生活全体の利益を害し、国民生活に重大な障害をもたらすおそれがあることは疑いをいれない。他の業務はさておき、本件の郵便業務についていえば、その業務が独占的なものであり、かつ、国民生活全体との関連性がきわめて強いから、業務の停廃は国民生活に重大な障害をもたらすおそれがあるなど、社会公共に及ぼす影響がきわめて大きいことは多言を要しない。それ故に、その業務に従事する郵政職員に対してその争議行為を禁止する規定を設け、その禁止に違反した者に対して不利益を課することにしても、その不利益が前に述べた基準に照らして必要な限度をこえない合理的なものであるかぎり、これを違憲懸無効ということはてきない

 この観点から公労法一七条一項の定める争議行為の禁止の違反に対する制裁をみるに、公労法一八条は、同一七条に違反する行為をした職員は解雇されると規定し、同三条は、公共企業体等の職員に関する労働関係について、労組法の多くの規定を適用することとしながら、労働組合または組合員の損害賠償責任に関する労組法八条の規定をとくに除外するとしている。争議行為禁止違反が違法であるというのは、これらの民事責任を免れないとの意味においてである。そうして、このような意味で争議行為を禁止することについてさえも、その代償として、右の職員については、公共企業体等との紛争に関して、公共企業体労働委員会によるあつせん、調停および仲裁の制度を設け、ことに、公益委員をもつて構成される仲裁委員会のした仲裁裁定は、労働協約と同一の効力を有し、当事者双方を拘束するとしている。そうしてみれば、公労法一七条一項に違反した者に対して、右のような民事責任を伴う争議行為の禁止をすることは、憲法二八条、一八条に違反するものでないこと疑いをいれない。

七 具体的に本件についてみるに、第一審判決は、公訴事実に基づいて、Aら三八名の行為を郵便法七九条一項前段違反の構成要件に該当すると認定した。原判決は、前述の第二小法廷の判決に従つて、公共企業体等の職員は、公労法一七条一項によつて争議行為を禁止され、争議権自体を否定されているのであるから、もし右のような事実関係があるとすれば、その争議行為について正当性の限界いかんを論ずる余地はなく、労組法一条二項の適用はないとしている。

 しかし、本件被告人らは、本件の行為を争議行為としてしたものであることは、第一審判決の認定しているとおりであるから、Aらの行為については、さきに述べた憲法二八条および公労法一七条一項の合理的解釈に従い、労組法一条二項を適用して、はたして同条項にいう正当なものであるかいなかを具体的事実関係に照らして認定判断し、郵便法七九条一項の罪責の有無を判断しなければならないところである。したがつて、原判決の右判断は、法令の解釈適用を誤つたもので、その違法は判決に影響を及ぼすこと明らかであり、これを破棄しなければいちじるしく正義に反するものといわなければならない。

 以上の判断に照らせば、公労法一七条一項および原判決が憲法一一条、一四条、一八条、二五条、二八条、三一条、九八条に違反する旨の各論旨は理由なきに帰する。よつて、その余の論旨に対する判断を省略し、原判決を破棄し、さらに審理を尽させるために、本件を東京高等裁判所に差し戻すものとし、刑訴法四一一条一号、四一三条本文により、主文のとおり判決する。

身障少年の教育を受ける権利(神戸地判平成4年3月13日)

(5) 以上のとおり、原告は、その中学時代の通学状況、学習能力、身体能力及び成績並びに本件高校における過去の身体障害者受入れの実績、施設及び教科履修などの点からしても、本件高校の全課程を履修することは可能であると認められるにもかかわらず、養護学校の方が望ましいという理由で本件高校への入学を拒否することは、万難を排して本件高校へ入学し、自己の可能性を最大限に追求したいという原告の希望を無視することになり、その結果は、身体に障害を有する原告を不当に扱うものであるといわなければならない。

(一) 以上のように、本件処分は、「高等学校における全課程の履修可能性」の判断に際し、その前提とした事実又は評価において重大な誤りをしたことに基づく処分であって、被告校長が本件高校への入学許否の処分をする権限の行使につき、裁量権の逸脱又は濫用があったと認めるのが相当である。

百選141事件 伝習館高校事件(最一判平成2年1月18日)

三 以上の事実関係の下において、原審は、被上告人Aの前記二1(一)の日本史の授業における教科書使用状況は、それを使っての通史的授業が相当簡略になったものと認められるところから、学校教育法五一条、二一条に違反し、同(二)の日本史の考査問題の出題及びこれに応ずる授業並びに同(三)の日本史の授業は、高等学校学習指導要領(昭和三五年文部省告示第九四号。以下「本件学習指導要領」という。)第一章第二節第六款並びに第二章第二節第二款第三日本史目標及び内容に違反し、同(四)及び同(五)の各行為のうち地理Bの各考査問題の出題は、本件学習指導要領第一章第二節第六款並びに第二章第二節第二款第七地理B目標及び内容に違反し、いずれも地公法三二条に違反して同法二九条一項一、二号の懲戒事由に該当し、また、被上告人Bの前記二2(一)の政治経済の授業はほとんどが教科書でない前記資料集を使用して行われたものであるところから、このような教科書使用状況は学校教育法五一条、二一条に違反し、同(二)の考査不実施及び成績の一律評価は、学校教育法施行規則六五条一項、二七条、福岡県立高等学校学則八条、伝習館高校校内規定に違反し、いずれも地公法三二条に違反して同法二九条一項一、二号の懲戒事由に該当するが、本件各懲戒免職処分は、特に次の点について考慮すると、社会観念上著しく妥当を欠き、上告人の裁量権の範囲を逸脱したものというべきであると判断した。

 (一) 懲戒事由に該当する被上告人らの各行為の多くは、法規違反の程度が著しいものとはいえない。もっとも、被上告人Bの考査不実施及び成績の一律評価の点は、違反の程度としては高いものといえるが、注意を受けたのちの二学期以降一律評価はやめている。

 (二) 上告人が本件各懲戒免職処分の理由とした被上告人らの各行為のうち、懲戒事由に該当すると認められるものはその一部にすぎず、その余のものは懲戒事由に該当しない。

 (三) 当時の福岡県下の高等学校の生徒の政治活動及び伝習館高校の生徒の異常な行動を被上告人らが授業その他において助長したことを認めるに足る証拠はない。

 四 しかしながら、原審の右判断のうち、被上告人らの右各行為が懲戒事由に該当するとした判断は是認することができるが、本件各懲戒免職処分は社会観念上著しく妥当を欠き、上告人の裁量権の範囲を逸脱したものであるとした判断は、是認することができない。その理由は、次のとおりである。

 地方公務員につき地公法所定の懲戒事由がある場合に、懲戒処分を行うかどうか、懲戒処分を行うときにいかなる処分を選ぶかは、平素から庁内の事情に通暁し、職員の指揮監督の衝に当たる懲戒権者の裁量に任されているものというべきである。すなわち、懲戒権者は、懲戒事由に該当すると認められる行為の原因、動機、性質、態様、結果、影響等のほか、当該公務員の右行為の前後における態度、懲戒処分等の処分歴、選択する処分が他の公務員及び社会に与える影響等、諸般の事情を総合的に考慮して、懲戒処分をすべきかどうか、また、懲戒処分をする場合にいかなる処分を選択すべきかを、その裁量的判断によって決定することができるものと解すべきである。したがって、裁判所が右の処分の適否を審査するに当たっては、懲戒権者と同一の立場に立って懲戒処分をすべきであったかどうか又はいかなる処分を選択すべきであったかについて判断し、その結果と懲戒処分とを比較してその軽重を論ずべきものではなく、懲戒権者の裁量権の行使に基づく処分が社会観念上著しく妥当を欠き、裁量権の範囲を逸脱しこれを濫用したと認められる場合に限り、違法であると判断すべきものである(最高裁昭和四七年(行ツ)第五二号同五二年一二月二〇日第三小法廷判決・民集三一巻七号一一〇一頁参照)。右の見地から、原審の確定した事実関係の下において本件各懲戒免職処分が上告人の裁量権の範囲を逸脱したものというべきかどうかについて検討する。

 思うに、高等学校の教育は、高等普通教育及び専門教育を施すことを目的とするものではあるが、中学校の教育の基礎の上に立って、所定の修業年限の間にその目的を達成しなければならず(学校教育法四一条、四六条参照)、また、高等学校においても、教師が依然生徒に対し相当な影響力、支配力を有しており、生徒の側には、いまだ教師の教育内容を批判する十分な能力は備わっておらず、教師を選択する余地も大きくないのである。これらの点からして、国が、教育の一定水準を維持しつつ、高等学校教育の目的達成に資するために、高等学校教育の内容及び方法について遵守すべき基準を定立する必要があり、特に法規によってそのような基準が定立されている事柄については、教育の具体的内容及び方法につき高等学校の教師に認められるべき裁量にもおのずから制約が存するのである。

 本件における前記事実関係によれば、懲戒事由に該当する被上告人らの前記各行為は、高等学校における教育活動の中で枢要な部分を占める日常の教科の授業、考査ないし生徒の成績評価に関して行われたものであるところ、教育の具体的内容及び方法につき高等学校の教師に認められるべき裁量を前提としてもなお、明らかにその範囲を逸脱して、日常の教育のあり方を律する学校教育法の規定や学習指導要領の定め等に明白に違反するものである。しかも、被上告人らの右各行為のうち、各教科書使用義務違反の点は、いずれも年間を通じて継続的に行われたものであって、特に被上告人Bの教科書不使用は、所定の教科書は内容が自分の考えと違うとの立場から使用しなかったものであること、被上告人Aの日本史の考査の出題及び授業、地理Bの考査の出題の点は、その内容自体からみて、当該各科目の目標及び内容からの逸脱が著しいとみられるものであること等をも考慮するときは、被上告人らの右各行為の法規違反の程度は決して軽いものではないというべきである。そして、懲戒事由に該当する被上告人らの各行為は、上告人が本件各懲戒免職処分の理由としたもののうちの主要なものである。

 更に、当時の伝習館高校の内外における前記のような背景の下で、同校の校内秩序が極端に乱れた状態にあったことは明らかであり、そのような状況の下において被上告人らが行った前記のような特異な教育活動が、同校の混乱した状態を助長するおそれの強いものであり、また、生徒の父兄に強い不安と不満を抱かせ、ひいては地域社会に衝撃を与えるようなものであったことは否定できないところであって、この意味における被上告人らの責任を軽視することはできない。そのほか、本件各懲戒免職処分の前約一年半の間に、被上告人Aは二回にわたってストライキ参加により戒告及び減給一月の各懲戒処分を受け、また、被上告人Bはストライキ参加により減給一月の懲戒処分を受けていることも、被上告人らの法秩序軽視の態度を示す事情として考慮されなければならないのである。

 以上によれば、上告人が、所管に属する福岡県下の県立高等学校等の教諭等職員の任免その他の人事に関する事務を管理執行する立場において、懲戒事由に該当する被上告人らの前記各行為の性質、態様、結果、影響等のほか、右各行為の前後における被上告人らの態度、懲戒処分歴等の諸事情を考慮のうえ決定した本件各懲戒免職処分を、社会観念上著しく妥当を欠くものとまではいい難く、その裁量権の範囲を逸脱したものと判断することはできない。これと異なる原審の判断は、ひっきょう、懲戒権者の裁量権に関する法令の解釈適用を誤ったものといわざるをえず、右の違法は原判決の結論に影響を及ぼすことが明らかであるから、論旨は理由があり、原判決は、その余の論旨について判断するまでもなく破棄を免れない。そこで、被上告人らの本訴請求について判断するに、被上告人らの右各行為は、地公法二九条一項一、二号の懲戒事由に該当するところ、原審の適法に確定した事実関係の下において、本件各懲戒免職処分に被上告人ら主張の手続的違法は認められず、また、それが懲戒権者の裁量権の範囲を逸脱したものということができないことは右に述べたとおりであるから、その取消しを求める被上告人らの本訴請求は理由かない。したがって、これと判断を異にする第一審判決を取り消し、被上告人らの請求をいずれも棄却することとする。

百選140事件 旭川学テ事件(最大判昭和51年5月21日)

 そして、この観点に立つて考えるときは、まず親は、子どもに対する自然的関係により、子どもの将来に対して最も深い関心をもち、かつ、配慮をすべき立場にある者として、子どもの教育に対する一定の支配権、すなわち子女の教育の自由を有すると認められるが、このような親の教育の自由は、主として家庭教育等学校外における教育や学校選択の自由にあらわれるものと考えられるし、また、私学教育における自由や前述した教師の教授の自由も、それぞれ限られた一定の範囲においてこれを肯定するのが相当であるけれども、それ以外の領域においては、一般に社会公共的な問題について国民全体の意思を組織的に決定、実現すべき立場にある国は、国政の一部として広く適切な教育政策を樹立、実施すべく、また、しうる者として、憲法上は、あるいは子ども自身の利益の擁護のため、あるいは子どもの成長に対する社会公共の利益と関心にこたえるため、必要かつ相当と認められる範囲において、教育内容についてもこれを決定する権能を有するものと解さざるをえず、これを否定すべき理由ないし根拠は、どこにもみいだせないのである。もとより、政党政治の下で多数決原理によつてされる国政上の意思決定は、さまざまな政治的要因によつて左右されるものであるから、本来人間の内面的価値に関する文化的な営みとして、党派的な政治的観念や利害によつて支配されるべきでない教育にそのような政治的影響が深く入り込む危険があることを考えるときは、教育内容に対する右のごとき国家的介入についてはできるだけ抑制的であることが要請されるし、殊に個人の基本的自由を認め、その人格の独立を国政上尊重すべきものとしている憲法の下においては、子どもが自由かつ独立の人格として成長することを妨げるような国家的介入、例えば、誤つた知識や一方的な観念を子どもに植えつけるような内容の教育を施すことを強制するようなことは、憲法二六条、一三条の規定上からも許されないと解することができるけれども、これらのことは、前述のような子どもの教育内容に対する国の正当な理由に基づく合理的な決定権能を否定する理由となるものではないといわなければならない。

 思うに、国の教育行政機関が法律の授権に基づいて義務教育に属する普通教育の内容及び方法について遵守すべき基準を設定する場合には、教師の創意工夫の尊重等教基法一〇条に関してさきに述べたところのほか、後述する教育に関する地方自治の原則をも考慮し、右教育における機会均等の確保と全国的な一定の水準の維持という目的のために必要かつ合理的と認められる大綱的なそれにとどめられるべきものと解しなければならないけれども、右の大綱的基準の範囲に関する原判決の見解は、狭きに失し、これを採用することはできないと考える。これを前記学習指導要領についていえば、文部大臣は、学校教育法三八条、一〇六条による中学校の教科に関する事項を定める権限に基づき、普通教育に属する中学校における教育の内容及び方法につき、上述のような教育の機会均等の確保等の目的のために必要かつ合理的な基準を設定することができるものと解すべきところ、本件当時の中学校学習指導要領の内容を通覧するのに、おおむね、中学校において地域差、学校差を超えて全国的に共通なものとして教授されることが必要な最小限度の基準と考えても必ずしも不合理とはいえない事項が、その根幹をなしていると認められるのであり、その中には、ある程度細目にわたり、かつ、詳細に過ぎ、また、必ずしも法的拘束力をもつて地方公共団体を制約し、又は教師を強制するのに適切でなく、また、はたしてそのように制約し、ないしは強制する趣旨であるかどうか疑わしいものが幾分含まれているとしても、右指導要領の下における教師による創造的かつ弾力的な教育の余地や、地方ごとの特殊性を反映した個別化の余地が十分に残されており、全体としてはなお全国的な大綱的基準としての性格をもつものと認められるし、また、その内容においても、教師に対し一方的な一定の理論ないしは観念を生徒に教え込むことを強制するような点は全く含まれていないのである。それ故、上記指導要領は、全体としてみた場合、教育政策上の当否はともかくとして、少なくとも法的見地からは、上記目的のために必要かつ合理的な基準の設定として是認することができるものと解するのが、相当である。

 そこでまず、右(1)及び(2)の点について考えるのに、本件学力調査における生徒に対する試験という方法が、あくまでも生徒の一般的な学力の程度を把握するためのものであつて、個々の生徒の成績評価を目的とするものではなく、教育活動そのものとは性格を異にするものであることは、さきに述べたとおりである。もつとも、試験という形態をとる以上、前者の目的でされたものが後者の目的に利用される可能性はあり、現に本件学力調査においても、試験の結果を生徒指導要録に記録させることとしている点からみれば、両者の間における一定の結びつきの存在を否定することはできないけれども、この点は、せつかく実施した試験の結果を生徒に対する学習指導にも利用させようとする指導、助言的性格のものにすぎないとみるべきであるから、以上の点をもつて、文部省自身が教育活動を行つたものであるとすることができないのはもちろん、教師に対して一定の成績評価を強制し、教育に対する実質的な介入をしたものとすることも、相当ではない。また、試験実施のために試験当日限り各中学校における授業計画の変更を余儀なくされることになるとしても、右変更が年間の授業計画全体に与える影響についてみるとき、それは、実質上各学校の教育内容の一部を強制的に変更させる意味をもつほどのものではなく、前記のような本件学力調査の必要性によつて正当化することができないものではないのである。次に、(3)の点について考えるのに、原判決は、本件学力調査の結果として、全国の中学校及びその教師の間に、学習指導要領の指示するところに従つた教育を行う風潮を生じさせ、教師の教育の自由が阻害される危険性があることをいうが、もともと右学習指導要領自体が全体としてみて中学校の教育課程に関する基準の設定として適法なものであり、これによつて必ずしも教師の教育の自由を不当に拘束するものとは認められないことはさきに述べたとおりであるのみならず、本件学力調査は、生徒の一般的な学力の実態調査のために行われたもので、学校及び教師による右指導要領の遵守状況を調査し、その結果を教師の勤務評定にも反映させる等して、間接にその遵守を強制ないしは促進するために行われたものではなく、右指導要領は、単に調査のための試験問題作成上の基準として用いられたにとどまつているのである。もつとも、右調査の実施によつて、原判決の指摘するように、中学校内の各クラス間、各中学校間、更には市町村又は都道府県間における試験成績の比較が行われ、それがはねかえつてこれらのものの間の成績競争の風潮を生み、教育上必ずしも好ましくない状況をもたらし、また、教師の真に自由で創造的な教育活動を畏縮させるおそれが絶無であるとはいえず、教育政策上はたして適当な措置であるかどうかについては問題がありうべく、更に、前記のように、試験の結果を生徒指導要録の標準検査の欄に記録させることとしている点については、特にその妥当性に批判の余地があるとしても、本件学力調査実施要綱によれば、同調査においては、試験問題の程度は全体として平易なものとし、特別の準備を要しないものとすることとされ、また、個々の学校、生徒、市町村、都道府県についての調査結果は公表しないこととされる等一応の配慮が加えられていたことや、原判決の指摘する危険性も、教師自身を含めた教育関係者、父母、その他社会一般の良識を前提とする限り、それが全国的に現実化し、教育の自由が阻害されることとなる可能性がそれほど強いとは考えられないこと(原判決の挙げている一部の県における事例は、むしろ例外的現象とみるべきである。)等を考慮するときは、法的見地からは、本件学力調査を目して、前記目的のための必要性をもつてしては正当化することができないほどの教育に対す強い影響力、支配力をもち、教基法一〇条にいう教育に対する「不当な支配」にあたるものとすることは、相当ではなく、結局、本件学力調査は、その調査の方法において違法であるということはできない

百選ⅡA 6事件 教科書費国庫負担請求権(最大判昭和39年2月26日)

 憲法二六条は、すべての国民に対して教育を受ける機会均等の権利を保障すると共に子女の保護者に対し子女をして最少限度の普通教育を受けさせる義務教育の制度と義務教育の無償制度を定めている。しかし、普通教育の義務制ということが、必然的にそのための子女就学に要する一切の費用を無償としなければならないものと速断することは許されない。けだし、憲法がかように保護者に子女を就学せしむべき義務を課しているのは、単に普通教育が民主国家の存立、繁栄のため必要であるという国家的要請だけによるものではなくして、それがまた子女の人格の完成に必要欠くべからざるものであるということから、親の本来有している子女を教育すべき責務を完うせしめんとする趣旨に出たものでもあるから、義務教育に要する一切の費用は、当然に国がこれを負担しなければならないものとはいえないからである。

 憲法二六条二項後段の「義務教育は、これを無償とする。」という意義は、国が義務教育を提供するにつき有償としないこと、換言すれば、子女の保護者に対しその子女に普通教育を受けさせるにつき、その対価を徴収しないことを定めたものであり、教育提供に対する対価とは授業料を意味するものと認められるから、同条項の無償とは授業料不徴収の意味と解するのが相当である。そして、かく解することは、従来一般に国または公共団体の設置にかかる学校における義務教育には月謝を無料として来た沿革にも合致するものである。また、教育基本法四条二項および学校教育法六条但書において、義務教育については授業料はこれを徴収しない旨規定している所以も、右の憲法の趣旨を確認したものであると解することができる。それ故、憲法の義務教育は無償とするとの規定は、授業料のほかに、教科書、学用品その他教育に必要な一切の費用まで無償としなければならないことを定めたものと解することはできない

 もとより、憲法はすべての国民に対しその保護する子女をして普通教育を受けさせることを義務として強制しているのであるから、国が保護者の教科書等の費用の負担についても、これをできるだけ軽減するよう配慮、努力することは望ましいところであるが、それは、国の財政等の事情を考慮て立法政策の問題として解決すべき事柄であつて、憲法の前記法条の規定するところではないというべきである。

百選137事件 堀木訴訟(最大判昭和57年7月7日)

 二 そこで、まず、本件併給調整条項が憲法二五条に違反するものでないとした原判決が同条の解釈適用を誤つたものであるかどうかについて検討する。

 憲法二五条一項は「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。」と規定しているが、この規定が、いわゆる福祉国家の理念に基づき、すべての国民が健康で文化的な最低限度の生活を営みうるよう国政を運営すべきことを国の責務として宣言したものであること、また、同条二項は「国は、すべての生活部面について、社会福祉社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。」と規定しているが、この規定が、同じく福祉国家の理念に基づき、社会的立法及び社会的施設の創造拡充に努力すべきことを国の責務として宣言したものであること、そして、同条一項は、国が個々の国民に対して具体的・現実的に右のような義務を有することを規定したものではなく、同条二項によつて国の責務であるとされている社会的立法及び社会的施設の創造拡充により個々の国民の具体的・現実的な生活権が設定充実されてゆくものであると解すべきことは、すでに当裁判所の判例とするところである(最高裁昭和二三年(れ)第二〇五号同年九月二九日大法廷判決・刑集二巻一〇号一二三五頁)。

 このように、憲法二五条の規定は、国権の作用に対し、一定の目的を設定しその実現のための積極的な発動を期待するという性質のものである。しかも、右規定にいう「健康で文化的な最低限度の生活」なるものは、きわめて抽象的・相対的な概念であつて、その具体的内容は、その時々における文化の発達の程度、経済的・社会的条件、一般的な国民生活の状況等との相関関係において判断決定されるべきものであるとともに、右規定を現実の立法として具体化するに当たつては、国の財政事情を無視することができず、また、多方面にわたる複雑多様な、しかも高度の専門技術的な考察とそれに基づいた政策的判断を必要とするものである。したがつて、憲法二五条の規定の趣旨にこたえて具体的にどのような立法措置を講ずるかの選択決定は、立法府の広い裁量にゆだねられており、それが著しく合理性を欠き明らかに裁量の逸脱・濫用と見ざるをえないような場合を除き、裁判所が審査判断するのに適しない事柄であるといわなければならない。

 そこで、本件において問題とされている併給調整条項の設定について考えるのに、上告人がすでに受給している国民年金法上の障害福祉年金といい、また、上告人がその受給資格について認定の請求をした児童扶養手当といい、いずれも憲法二五条の規定の趣旨を実現する目的をもつて設定された社会保障法上の制度であり、それぞれ所定の事由に該当する者に対して年金又は手当という形で一定額の金員を支給することをその内容とするものである。ところで、児童扶養手当がいわゆる児童手当の制度を理念とし将来における右理念の実現の期待のもとに、いわばその萌芽として創設されたものであることは、立法の経過に照らし、一概に否定することのできないところではあるが、国民年金法一条、二条、五六条、六一条、児童扶養手当法一条、二条、四条の諸規定に示された障害福祉年金、母子福祉年金及び児童扶養手当の各制度の趣旨・目的及び支給要件の定めを通覧し、かつ、国民年金法六二条、六三条、六六条三項、同法施行令五条の四第三項及び児童扶養手当法五条、九条、同法施行令二条の二各所定の支給金額及び支給方法を比較対照した結果等をも参酌して判断すると、児童扶養手当は、もともと国民年金法六一条所定の母子福祉年金を補完する制度として設けられたものと見るのを相当とするのであり、児童の養育者に対する養育に伴う支出についての保障であることが明らかな児童手当法所定の児童手当とはその性格を異にし、受給者に対する所得保障である点において、前記母子福祉年金ひいては国民年金法所定の国民年金公的年金)一般、したがつてその一種である障害福祉年金と基本的に同一の性格を有するもの、と見るのがむしろ自然である。そして、一般に、社会保障法制上、同一人に同一の性格を有する二以上の公的年金が支給されることとなるべき、いわゆる複数事故において、そのそれぞれの事故それ自体としては支給原因である稼得能力の喪失又は低下をもたらすものであつても、事故が二以上重なつたからといつて稼得能力の喪失又は低下の程度が必ずしも事故の数に比例して増加するといえないことは明らかである。このような場合について、社会保障給付の全般的公平を図るため公的年金相互間における併給調整を行うかどうかは、さきに述べたところにより、立法府の裁量の範囲に属する事柄と見るべきである。また、この種の立法における給付額の決定も、立法政策上の裁量事項であり、それが低額であるからといつて当然に憲法二五条違反に結びつくものということはできない

 以上の次第であるから、本件併給調整条項が憲法二五条に違反して無効であるとする上告人の主張を排斥した原判決は、結局において正当というべきである。(なお、児童扶養手当法は、その後の改正により右障害福祉年金と老齢福祉年金の二種類の福祉年金について児童扶養手当との併給を認めるに至ったが、これは前記立法政策上の裁量の範囲における改定措置と見るべきであり、このことによつて前記判断が左右されるわけのものではない。)

 三 次に、本件併給調整条項が上告人のような地位にある者に対してその受給する障害福祉年金と児童扶養手当との併給を禁じたことが憲法一四条及び一三条に違反するかどうかについて見るのに、憲法二五条の規定の要請にこたえて制定された法令において、受給者の範囲、支給要件、支給金額等につきなんら合理的理由のない不当な差別的取扱をしたり、あるいは個人の尊厳を毀損するような内容の定めを設けているときは、別に所論指摘の憲法一四条及び一三条違反の問題を生じうることは否定しえないところである。しかしながら、本件併給調整条項の適用により、上告人のように障害福祉年金を受けることができる地位にある者とそのような地位にない者との間に児童扶養手当の受給に関して差別を生ずることになるとしても、さきに説示したところに加えて原判決の指摘した諸点、とりわけ身体障害者、母子に対する諸施策及び生活保護制度の存在などに照らして総合的に判断すると、右差別がなんら合理的理由のない不当なものであるとはいえないとした原審の判断は、正当として是認することができる。また、本件併給調整条項が児童の個人としての尊厳を害し、憲法一三条に違反する恣意的かつ不合理な立法であるといえないことも、上来説示したところに徴して明らかであるから、この点に関する上告人の主張も理由がない。