Pacta Sunt Servanda

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百選43事件 牧会活動事件(神戸簡判昭和50年2月20日)

四、それはさておき、被告人の右行為が蔵匿と評価しうるものであるとしても、当裁判所は、それは違法性を欠くものと思料する。
(一)一般にキリスト教における牧師の職は、ある宗教団体(教会等)からの委任に基き、日常反覆かつ継続的に、福音を述べ伝えること即ち伝道をなし、聖餐の儀式をとり行なうこと即ち礼拝を行ない、又、個人の人格に関する活動所謂「魂への配慮」等をとおして社会に奉仕すること即ち牧会を行ない、その他教会の諸雑務を頂かり行なうことにある。そのうち牧会とは、牧師が自己に託された羊の群(キリスト教では個々の人間を羊に喩える)を養い育てるとの意味である。そこで、牧師は、中に迷える羊が出れば何を措いても彼に対する魂への配慮をなさねばならぬ。即ちその人が人間として成長して行くようにその人を具体的に配慮せねばならない。それは牧師の神に対する義務即ち宗教上の職責である。(証人竹中正夫の当公判延における供述によって以上の事実を認める。)
 従って牧会活動は社会生活上牧師の業務の一内容をなすものである。
(二)しかるところ、前認定被告人の所為は、自己を頼って来た迷える二少年の魂の救済のためになされたものであるから、牧師の牧会活動に該当し、被告人の業務に属するものであったことは明らかである。
 ところで、それが正当な業務行為として違法性を阻却するためには、業務そのものが正当であるとともに、行為そのものが正当な範囲に属することを要するところ、牧会活動は、もともとあまねくキリスト教教師(牧師)の職として公認されているところであり、かつその目的は個人の魂への配慮を通じて社会へ奉仕することにあるのであるから、それ自体は公共の福祉に沿うもので、業務そのものの正当性に疑を差しはさむ余地はない。一方、その行為が正当な牧会活動の範囲に属したかどうかは、社会共同生活の秩序と社会正義の理念に照らし、具体的実質的に評価決定すべきものであって、それが具体的諸事情に照らし、目的において相当な範囲にとどまり、手段方法において相当であるかぎり、正当な業務行為として違法性を阻却すると解すべきものである。
 而して、牧会活動は、形式的には宗教の職にある牧師の職の内容をなすものであり、実質的には日本国憲法二〇条の信教の自由のうち礼拝の自由にいう礼拝の一内容(即ちキリスト教における福音的信仰の一部)をなすものであるから、それは宗教行為としてその自由は日本国憲法の右条項によって保障され、すべての国政において最大に尊重されなければならないものである。
 尤も、内面的な信仰と異なり、外面的行為である牧会活動が、その違いの故に公共の福祉による制約を受ける場合のあることはいうまでもないが、その制約が、結果的に行為の実体である内面的信仰の自由を事実上侵すおそれが多分にあるので、その制約をする場合は最大限に慎重な配慮を必要とする
 確かに、形式上刑罰法規に触れる行為は、一応反社会的なもので公共の福祉に反し違法であるとの推定を受けるであろうが、その行為が宗教行為でありかつ公共の福祉に奉仕する牧会活動であるとき、同じく公共の福祉を窺極の目標としながらも、直接には国家自身の法益の保護(本件の刑法一〇三条の保護法益は正にこれに当る。)を目的とする刑罰法規との間において、その行為が後者に触れるとき、公共の福祉的価値において、常に後者が前者に優越し、その行為は公共の福祉に反する(従ってその自由も制約を受け、引いては違法性を帯びる)ものと解するのは、余りに観念的かつ性急に過ぎる論であって採ることができない。後者は外面的力に関係し、前者は内面的心の確信に関係する。両者は本来社会的機能において相重なることがなく、かつ相互に侵すことのできない領域を有し、性格を全く異にしながら公共の福祉において相互に補完し合うもので、同時的又は順位的に両立しうる関係にある。何故ならば、そもそも国政の権威は国民に由来し、その権力は国民の福利のために行使されるべきものであり、両者はともにそのことを目標とするものであるからである。従って、右のような場合、事情によってはその順位の先後を決しなければならなくなるが、それは具体的事情に応じて社会的大局的に実際的感覚による比較衡量によって判定されるべきものである。この場合宗教行為の自由が基本的人権として憲法上保障されたものであることは重要な意義を有し、その保障の限界を明らかに逸脱していない限り、国家はそれに対し最大限の考慮を払わなければならず、国家が自らの法益を保護するためその権利を行使するに当っては、謙虚に自らを抑制し、寛容を以てこれに接しなければならない。国権が常に私権(私人の基本的人権)に優先するものとは断じえないのである。
(右のように解したからといって、宗教活動家に治外法権的特権を与えることにはならないし、法の下の平等を定めた憲法一四条一項に反するものでもない。)
 而して、牧会活動の目的が通常正当なものであることは前述のとおりであるから、具体的牧会活動が目的において相当な範囲にとどまったか否かは、それが専ら自己を頼って来た個人の魂への配慮としてなされたものであるか否かによって決すべきものであり、その手段方法の相当性は、右憲法上の要請を踏まえた上で、その行為の性質上必要と認められる学問上慣習上の諸条件を遵守し,かつ相当の範囲を超えなかったか否か、それらのためには法益の均衡、行為の緊急性および補充性等の諸事情を比較検討することによって具体的綜合的に判定すべきものである。
(三)これを本件についてみると、一七歳前後の柴田、中西の二少年が同年輩の他の数名の少年と共に学校封鎖を目的として前記建造物侵入等の過激な犯行を敢行しながらも学校封鎖に至ることができず、その直後の敗北と挫折感に打ちひしがれ、思いつめた心理状態にあり、特に柴田少年にとって被告人は父親代りの立場にあったこともあって、両少年が被告人に何らかの救済を求めた(それが少年達にとっては、主に逃亡を志向したものであったにしても、幾分かの心の救いを求めるものであったことは間違いない。)のに対し、被告人は牧師としてこれに対処し、彼等が右犯罪行為(窃盗罪該当の事実を除く)をなした者であるとの認識を有したものの、彼等の人間としての救済に魂を凝結し、彼等の将来に思いをめぐらして、何よりも先ず彼等の不安定な心を静め、自己に対する反省と肉体的労働を通じて健全な人間性を取り戻させ、爾後自己の責任において対処せしめるのを最良の道と考え、そのためには彼等が手の届かない所へ逃亡することと他の過激なグループと接触することを予防しながら、労働せしめかつ礼拝への参加、教義の伝道等を通じて地道な自己省察をなさしめるため地元尼崎市から監督と指導に適当な竜野教会に一時隔離することを緊急事とし、鈴木牧師と相談の上その処置を採ったものであり、その結果両少年は八日後には心の落着きを取戻し、自己の行為を反省して自主的に所轄警察署に出頭したものであった。 
 従って、それは専ら被告人を頼って来た両少年の魂への配慮に出た行為というべく、被告人の採った右牧会活動は目的において相当な範囲にとどまったものである。
 又、牧会活動はその行為の性質上これをなす者と受ける者の心対心の問題であって、これをなす者が心底からそれを信じて行なうのでなければ魂の救済に役立たないのであるから、これを他人(国家も含む)に任せるということはありえない(尤も援助を求めることは別問題である。)。従ってこれをなす者がこれを受ける者の人間的信頼を得て始めて成功するもので、、如何なる事情があっても、一旦約束した秘密を神以外に漏らしてはならない場合もあるであろうから、被告人が一時的に両少年の所在を人に告げなかったことを取立てて責めることは相当ではないし、他に被告人が教会牧師として遵守すべき道を違えたと認めることもできない。
 次に、両少年を取巻く前記諸般の事情を考え、彼等の将来に思いを致せば、第三者的傍観者はいざ知らず、その渦中に身を投じ彼等と共に真摯に悩む神ならぬ通常人にとっては、被告人の採った右処置以外に適当な方途を見出すことは至難の業であったであろうし、それは正に緊急を要する事態でもあったのである。
 しかも、その間にあっても、右高校封鎖事犯の捜査は、他の少年達の出頭等によって取立てていう程の遅滞もなく進展していたし、両少年も八日後には牧会が効を奏し、自己の責任を反省し自ら責任をとるべく任意に警察に出頭したことではあるし、右程度の捜査の支障は、前述の憲法上の要請を考え、かつ、その後大きくは彼等が人間として救済されたこと、小さくは彼等の行動の正常化による捜査の容易化等の利益と比較衡量するとき、被告人の右牧会活動は、国民一般の法感情として社会的大局的に許容しうるものであると認めるのを相当とし、それが宗教行為の自由を明らかに逸脱したものとは到底解することができない。本件の場合、国家は信教の自由を保障した憲法の趣旨に照らし、右牧会活動の前に一歩踏み止まるべきものであったのである。
 これを要するに、被告人の本件牧会活動は手段方法においても相当であったのであり、むしろ両少年に対する宗教家としての献身は称賛されるべきであった。
(四)以上を綜合して、被告人の本件所為を判断するとき、それは全体として法秩序の理念に反するところがなく、正当な業務行為として罪とならないものということができる。

五、よって刑事訴訟法三三六条により被告人に対し無罪の言渡をする。